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Book : 中村 天風 運命を拓く②

  • 執筆者の写真: mayumi
    mayumi
  • 2021年9月11日
  • 読了時間: 14分

更新日:2022年5月27日


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⑥人間の生命の本来の面目


我々の生命は、常に伸びよう伸びようとしている。

これを忘れてはいけない。


だから、自己向上の意欲の薄くなった人は、どうしても老衰を早める。

理由は、創造主から与えらる、生命を支える活力を受け入れる口を

わざわざ自分で塞いでいるからだ。


そんな時代が来ようと、どんな齢になろうと、

我々は進化向上の自然法則の中で活きている


特に、現在病のある人、運命の良くない人も、

決してその病や運命に心をこだわらせないことだ。

人生は浮き沈みある、晴天の日もあれば、雨の日もある。

その度に、自分の心を苦しめていたらどうなるか。


病の時に、病にこだわれば、病に負けてしまう。

運命の良くない時、運命にこだわれば、運命に負けてしまうではないか。

だから、病でも運命でも、消極的な気持ちにしないこと

そうするには、まず相手にしないようにすることが一番である。

病は忘れることによって治る!


人間は健康でも運命でも、心がそれを断然乗り越えて行くところに、

生命の価値があるのだ!


同じ事業家でも、欲の塊でやる者と、

この仕事で世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう

という気持ちでやることでは、その結果が全然違う


何を志す時でも、自己向上を目的とする

そして、その目的とする自己向上は、ただ単に自分の幸福だけのためにするんじゃない。

自他の幸福のためにするんだ、という広い意味を忘れてはいけない。



⑦人生の羅針盤


人の本当の値打ちというのは、宝石でもなければ、黄金でもない。

いわんや地位でもなければ、名誉でもない。ただ、信念の二文字である。

(ソロモン)


凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、

自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる。

(ゲーテ)


信念の重大性は早くから、人生を考える学者や識者には、感じられていたのである。

こんな重要なことが、現在人は情けないほどそれをそうと考えず、

何でも、まず疑いから考えようとする。

そうすることが正しい考え方のように思っている人が多い。

疑いから考えようとするから、自分というものが小さな存在になってしまっている


実際、古今洋の東西問わず、仲間を群をしのいで名をなし、

功を遂げた偉人や傑士を見てみると、誰も皆信念の人であった


それでは、どうすれば信念が確率され、強くなるのか。

それにはまず、「信念を煥発すること」である。

信念は煥発しなければ、強くならない

信念は出たくてうずうずしているのに、消極的な観念がそれに蓋をしていて、

心の底の底の底に、いつの間にか下積みにされてしまったのである。


信念が煥発されると、くだらないことは考えないし、

神経は過敏にならないし、ことあるも常にことなきようになれるである

信念という、この人生に重要性を持つ価値高いものを煥発しなければいけない。


どこまでも自分を作り変えて行くという心で、

真理を開いた以上、真剣に実行していかなければならない。


自分の心の中に生まれながして、霊性意識の中に入っているものであるから、

雑念妄念をの除き、心の正体を出しさすれば、ぐんぐん出てくる


信念が出てこないと、人生は不可解なことがいっぱいなのだから、

あっちへウロウロこっちへウロウロとし、

本当に安心立命の人生を活きる事が出来ないという滑稽な結果だけになる。


信念を持つことを多くの人は、大変難しいとこのように思っていうるが、

決して難しくも何ともないんだよ。

鏡を見て、顔の眉間に向かい、自分が精神統一してから、

自己暗示法を注ぎ込みさえすれば、信念はぐんぐん出てくるのだ


どんなに学問ができようが、お金が出来ようが、

信念がなければ、その人の人生は、哀れ、惨憺たるものになる

ちょうど薄い氷の上に、立っているようなものである。

いつ何時底知れない湖の中に落ち込んでしまうかも知れないような、

危険な人生を活きているのが、信念のない人生だ。


★信念の唱句

信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。

従って信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。

かるがゆえ、私は真理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。

否、信ずることに努力しよう。

もしも疑っているような心持ちが少しでもあるならば、

それは私の人生を汚そうとする悪魔が、魔の手を伸ばして、

私の人生の土台石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。



⑦第一義的な活き方


出来るだけ平素、幸福の方面から人生を考えよ

苦しい時でも楽しい思い。

人間の幸福というのは、その人の人生に対する考え方というものを切替えない限りは、

どんな境遇が来ても、ああ、ありがたい、嬉しいと思いはしない。

感じるのは心だ。

だから自分の心で、全てのことを幸福にしてしまいなさい。


生きていることを、ただありがたく感謝しなさい!

中には、生きていることが憂いと思う人がある。

そういう人には、ちゃんと創造主が早く死ねるようにしてくれる。

心が振り返られると、医者が40まで生きられないという体が、

90以上生きいても平気なのだ。


常に感謝と歓喜とを心から失わないようにしよう。

そして自分の心なのだから、積極的に心が変わって行くよう真剣に焼き直さなければいけない。

そうすると自然に人生に光明がひらめいてくる。

光がひらめけば闇は消える。

真理は、まことに当然過ぎるぐらい当然である。

歓喜の世界に悲哀はなく、

感謝の世界に不満はない。

同時に反対のものが二つは出ない。

片方出れば、片方が引っ込むようになっているのだ


普段から心がけに注意しなければいけない。

”真” ”善”  ”美” 以外には、心を使わないようにごらんなさい


善とは、”偏りのない愛を持って、ものに接する行為と言葉

自分の身内だけには、非常な愛情を持っているが、

隣の者はどうであってもちっとも構わない。

自己を本位とし、自己の周囲だけに対して、愛情を持つだけではないか。

人を愛する気持ちに偏りがあったら、その人は、本当の”善” を行っていない


美とは、”調和”である。

”調和” なきところに ”美” はない。

どんな名人が画いた絵でも、私が感心しない時は、

調和がとれていない絵である場合である。

どんな下手な人が画いた絵でも、調和がとれているものであれば、これは本当の美術である。


私が、握手する時必ず、

私は宇宙エネルギーを私の体に受け入れて、有り余るほどあるから、

この力をこの人に伝えてあげよう

という気持ちで手を握る。

わずかなことであるが、心一つの置きどころである。


人間というものは、いかなる場合であろうと、

自己が主でなければいけない

そして主となるには、人にも物にも、わずわらされない、とらわれないことである



★座右箴言

私はもはや何事をも怖れまい。

それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということの以外に、

不完全というもののないよう宇宙真理が出来ているからである。

否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ずや何事といえども成就する。


だから今日からはいかなることがあっても、また、いかなることに対しても、

仮に消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行うまい。

そして、いつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。


同時に、常に心をして思考さしむることは、

”人の強さ”、”真”、”善”、”美” のみであるよう心がけよう


例え身に病があっても、心まで病ますまい。

例え運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。


否、一切の苦しみをも、なお楽しみとなすの強さを心に持たせよう。

宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、

その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身に約束しよう。



⑧恐怖への戒め


この世の中にあるものの中で、一番怖しいものを教えよう。

二つある。

真理が一番恐ろしい

これはもう、どうすることも出来ない。

第二に恐ろしいのは、そういうことを考えないで、

ただ無闇に怖れる自分の心が恐ろしい


人生、事業であろうと、日常生活の些細なことであろうと、

何事に対しても、自分の心の態度を、恐怖から断然引き離しておかなければいけない

自分の生命の背後には、

見えないけれども宇宙霊が自分を抱きしめるように、自分と共に在るんだ!

我は宇宙霊と共にいる!と考えること。


神経過敏でない勢いの良い人と交際することである。

神経過敏な人は、時とすると、この恐怖の嵐に随分間違った同情をする。

「これを怖れずにいられるか」というふうに。

そして、これを大して悪いことと思わぬ傾向がある。むしろ当然だと思ってる。

しかしこれは大変な間違いである。

間違いは訂正しないと、全てが良い方に好転しなくなる


だから、ちょっと何か恐怖的に物を考えるような観念が出たら、

自分の尊い生命を守ってくれる心の王座には断然、恐怖というような悪魔は入れないのだ!

「己を守るのは、己だ!」と吹き消してしまいなさい。


心の安定を失う中で、一番戒むべきものは恐怖観念である

この恐怖なるものこそ、

価値なき消極的の考え方で描いているシミだらけな醜い一つの絵のようなもの。

私の背後に私を守りたもう、宇宙霊の力のある事を信じて何事をも怖れまい


これを忘れずにいれば、どんなことがあってもビクともするものではない

自分が捕まえて見えないものだから、いないと思ったらとんでもない。

生きているということは、すでに、その力が諸君を抱いてくれているから生きていられるのだ。



⑨勇気と不幸福撃退


心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど何を考える時でもやたらと取越苦労をする。

取越苦労すると物事をやたらと消極的に大袈裟に考える。

あれがああなってこうなって、こうなってああなって、ああペシャンコだ、というふうにね。

人間は、この良くない癖と伝統的に慣習的に付き合っている。

重大に考えなければいけないことは、心配したり悲観したりする習慣を、

習慣とも気づかず、悪い癖とも反省しないで、人間の共通性というように、

間違えてやっていると、人生の光明をどんどん闇にする哀れな気分だけが人生を支配するようになる


ただそれだけでも下らない惨めな人生なのに、

そういった心配や悲観をしてると、

その心配や悲観がなんと現実の事実になって

本当に人生を惨めな状態にしてしまうのである

なぜかというと、悲観や心配したりすると、

その心配や悲観が、人生に苦い形で現実の姿を現してくるように宇宙真理ができているからである。

これは絶対の真理である。

これは自然の法則なのである。


この大宇宙の中には精気というものがあり、

その精気の中には、積極の気と消極の気とが入り混じり遍満している。

その気が人間の心の中の気分と常に同化的に働いている

積極的なことを考えればプラス(正)の気が入ってくるし、

消極的の気分になればマイナス(負)の気が入ってくる。


真理というものは、事情や情実で左右されない。

まして病や運命に対して、もっとより良い結果を望むならば尚更、

一段と心配や悲観というものは絶対に無意味だと考えねばならない。

否、無意味というより破壊に終わるのだ。


とぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで、

自分の心が影響され、あるいは同情し、自分まで心配して不愉快になったり、

悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。

”同情”という気分は尊いが、

自分というものを、これと同様の消極的な気分にし、

自分の生命まで腐らしてしまう義務も責任もないはずだ。

消極的な他人の気分にまで、同化的環境を作る必要はない。


心を積極的にする要点は何かというと、勇気の煥発だ!

だから何事に対しても、またいかなる時でも、勇気、勇気で対応しなければならない。

わかりやすく言えば、どんな場合にも、虚心平気の状態でいられるかだ


勇気は常に勝利をもたらし

恐怖は常に敗北を招く

断じて行えば、鬼神もこれを避く

陽気の発するところ、金石もまた透る


この世の中や人生には、滅多やたらに恐ろしいということはない。

怖しいと思っているのは、自分の心なのである

今まで生きて来た過去を考えてみなさい。

のべつそんなに怖しいことがあったか、なかったか。

生まれつき神経過敏な人間はいない。生まれた時には白紙のごとし。

それが、今の状態になったのは何故かというと、

自分自身で生まれた時に持ってきた勇気というものを影を薄くしてしまっているからだ。

なくなっているのではない。

その上に消極的な弱い心が蓋をしているからなのである。



★不幸福撃退の唱句

私はもう何事が自分の人生に発生しようと、

決していたずらに心配もせず、また悲観もしないように心がけよう。

それはいたずらに心配や悲観したりすると、

すればするほどその心配や悲観する事柄が、

やがていつかは事実となって具体化してくるがゆえである。


神仏と名付けられている宇宙霊なるものの心の中には、

真善美以外に、心配や悲観というような消極的な心持ちは、夢にもない。

私はその宇宙霊の心と通じている心を持つ万物霊長たる人間である。

従って私がこの自覚を明瞭にした以上、

下らぬことに心配したり、悲観したりする必要はさらにない。


人間が人間らしくある時にのみ、

人間の恵まれる幸福を受け得る。

だから私は宇宙霊の心と力に近寄るために、

心配や悲観という価値なきことを断然しないことにする。

そして真理に則した正しい人生に活きよう。



⑩理想と想像


何ら理想もなく、人生に漫然として生きている人は、哀れ惨憺たる人間である。

たとえその人が、どんなに熱烈な信仰心を持って神や仏を崇めても、

結局は極めて、儚い人生に生き終わるだけが、その全てである。


だから、立派な理想を持つ人は、神や仏という目標を定め信仰する必要はない。

もうすでに、その立派な理想の中に活きている活き方が、

自分では気づかなくても立派な宗教的な生活をしているからである。


人生を有意義に活きるためには何においても、

自分の理想を階級の高い気高さで、常に心の中に抱かなければいけない。


自分の人生を、気高い内容と価値高い標準で持つ人は、

その理想が現実になる前から現実になったと同じような、

人生境涯で活きていると同様である。


理想は野心的であってはならない。

野心的である場合には、成就しない場合が多いばかりでなく、

一つの力で心がまとめていられない結果がくる。

野心的な理想というのは、往々にして心の統一を破る。

そしてそのため、結果を不良にするのである。


理想を気高いものにしようとするには、第一に必要なことは、

「我というものが宇宙本体と常に一体である」

ということを信念しなければならない。

信念するのであって、ただ思っただけではいけないのだ。

見えざる”力”との結合を決して忘れてはいけない。

すぐ孤独になるからいけない。


川が流れるのは水源があるためだ。

水源のない川はあり得ない。

我々の存在は、我々の生命の持つ源がこれを保っている。

その源が宇宙本体である。

その宇宙本体と常に結ばれている自己を、

明瞭に意識して活きると活きないとでは、

結果において、どれだけ大きな差が出来るかわからない。


何かしら不都合を感じたり、不満を感じる場合は、そういう方面から考えないで、

それが完全に成就した姿を自分の心に描きなさい。

ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ、という念願だけを心に炎と燃やさないで、

ああなったらいいなあというものが、既に成就してしまった時の気持ちや姿を心に描くのだ。

これは紙一重の相違だけど、そこに微妙な相違がある。

なりたいなあ、という気持ちより、

なっている姿、を心に描いた時に、

現実から程遠いことでも、霊の世界では、もうそれが本当になっているのと同じことになる。


見える形のものにならないと、

それを事実として承認しないという態度が非常な見当違いである。

だから、理想の中に描く絵はもう、確実に、現実化したものでなければいけない。

そして、その描いた絵は、決して取り替えないようにしなければいけない。

昨日と今日とでは、全く形が変わったものにしたのではいけない。


頼もしい理想を作るには、常日頃の心の思い方、考え方、

言い換えれば、絶えず描かれている心の中の”想像”というものを、

上手にコントロールしなければいけない。


自分の欲念から希望する人生状態や、その他の事柄を無制限に、

自己本位として拡大し引き伸ばして、無鉄砲に、当て所もなく考える場合が多い。

こうなるともう考え方が滅茶苦茶で運命は破壊される。

観念の世界が絶対自由とは言いながら、

これにある程度の制約を与えないと、至極わがままの出来る点があるだけに、

よほど慎重に自己監督を施さないと心の想像作用が奔放で放縦になる。


事業でいえば、自我本位で欲望から出発した富や地位であってはならない。

人の世のため貢献する自分として、考えなければならない。

第二義以下の想像では、正しい人生というものをもたらさない。



★理想の唱句

人の生命は常に見えざる宇宙霊の力に包まれている。

従って、宇宙霊の持つ万能の力もまた、我が生命の中に当然存在している。

いかなる場合、いかなる事にも、怖れることなく、また失望する必要なない。

否、この真理と事実とを絶対に信じ、常に高潔な理想を心に抱くことに努めよう。

そうすれば、宇宙真理の当然の帰結として、必ず完全な人生を作為される。

今ここにこの天理を自覚した私は、何という恵まれた人間であろう。

否、真実、至幸至福というべきである。

従って、ただこの上は無限の感謝を持ってこの真理の中に安住するのみである。



◉一念不動


自分の一旦描いた理想は、一念不動の状態で、固く固く把持し、変更しないこと。

だから、第一にはっきりと明瞭に自己の欲する物事を決定する事。

第二に一旦決定した以上は、その決定した時事柄を、みだりに変更せぬ事である。

あとは確実に自分のものにすることが出来るという”信念”を堅固する。


折りあるごとに、自分の希望すること、求るところのものを、

「実現する!実現する!」と繰り返し自己自身にいう。

既にその望むところのものを半ば以上、

自分のものにしたのと同様の道筋に入ったのである。

その後、ひたすら信念を堅固し繰り返していると、

宇宙霊は自然的な経路で、自動的にその求むことを実現してくれる


ありていに言うと、最初に信念強く希望が「実現する!」と断定した時には、

その事柄は、霊の世界においては、もう実在となっているからである。

花や実をもたせる種子と同様に。


だからこの論理的必然性を妨げるようなことは一切いけない。

特に、求ることを変更したり、モデルを不完全にするような、

信念を欠如することは最も戒むべきことである。

どこまでも前後一貫し、同一の事柄を、固く固く心に刻みつけて行かねばならない。

そうすることにより、その思考することが、

必ずや成就実現されることは間違いないのである。

 
 
 

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